古事記「禊祓」について・その四

 古事記の新しい文章に入ります。

 ここに詔りたまはく、「上つ瀬は瀬速(はや)し、下つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて滌ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神、次に大禍津日(おほまがつひ)の神。この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の、汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

 この文章以後の古事記はすべて伊耶那岐の大神の行動を五十音言霊図またはその言霊図内の言霊の動きによって表現していることを念頭においてお読み下さい。

 今まで全く知らなかった黄泉国の文化とその様相を体験してしまいました。この自分は、自分本来の菅麻(すがそ)音図を行動の舞台として、衝立つ船戸の神という指針を掲げ、どう変身を遂げれば黄泉国の文化の実相を損(そこ)なうことなく人類文明の中に取り入れることが出来るか、の検証に入りました。

 「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」
 伊耶那岐の大神は自らの心の変転を自らの音図(菅麻)のどの次元で検証したらよいか、を先ず考えました。

 菅麻音図の母音は上よりアオウエイと並びます。人間の心の動きはアよりワ、オよりヲ、・・・と母音より半母音に向う川の瀬の如く変化します。

 上つ瀬とはアよりワに流れる感情次元の動きのことです。この感情次元の心の流れの上で自らの変身を考えることは変化がありすぎて適当ではない。人類文明創造は高度の政治活動であり、これを感情次元で取扱ってはいけない、という事です。

 では下つ瀬ではどうか。下つ瀬はイよりヰに流れる意志の次元です。言霊が存在する次元です。「下つ瀬は弱し」、言霊原理そのものを論議していては何時まで経っても事態は変わって行かない。このイ次元も文明創造を考えるのに実際的でない、不適当である、ということになります。そこで――

193-1 初めて中つ瀬に堕り潜きて滌ぎたまふ時に、
 菅麻音図の母音の並びはアオウエイでありますから、その上つ瀬のア―ワ、下つ瀬のイ―ヰを除くオウエ、即ちオ―ヲ、ウ―ウ、エ―ヱの瀬が中つ瀬ということになります。この中つ瀬に入って禊祓の検証を推進しようとしますと、いろいろな事が分かって来たのであります。先ず分かったのは――

193-2 八十禍津日の神、次に大禍津日の神。
 禊祓に於て「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」と不適当と否定された母音アとイの禊祓に於ける功と罪であります。

 母音アの瀬の功罪の判明を八十禍津日の神といい、イの瀬の功罪の判明を大禍津日の神といいます。

 二つの禍津日の神の意味は「古事記と言霊」の中で詳しく解説してありますので、ここでは簡単に説明しましょう。

 八十禍津日の神の八十(やそ)とは八十ということ。菅麻音図を上下にとった百音図から図の如く向って右側の母音十個と左側の半母音十個を除いた八十個の言霊は現象に関する音であります。

 この八十個の言霊の中で、上の五段に対応して下の五段にも同じ言霊が並びます。二つずつ同じ言霊がありますから、本来同じ現象内容を示す筈です。

 ところが上と下とではその現象の意味がまるで違って来るという事になります。同じ言霊で示される現象だからそんな事は有り得ないと思われるでしょうが、実際にはそうではないのです。

 身近なところで母親が幼い子を叱(しか)るという行為をとってみましても、母親の方に純粋な愛、人格と言ったものの自覚の有無によってその叱り方に雲泥の相違が出来ることです。

 まして図の如く、上段は言霊の自覚者、下段は無自覚者と区別しますと、一見同じに見える行為・現象がその内容、効果、影響等に大きな相違が出る事が分かって来ます。また言霊アの次元の自覚に立つと、いろいろな現象の実相がよく見えても来るのです。

 以上のような次元の自覚の有無、実相自覚の有無は物事を観察する上で重要な事であり、禊祓の行為の前提としては欠かせない必要な事です。

 これはア次元の観察の功であります。けれど実相を見分けただけでは、すべてのものを摂取して、それを材料として生かし、文明創造に資する事にはなりません。これが罪となります。この功罪を見分ける事が出来た事を八十禍津日の神といいます。

 大禍津日の神とは言霊イの次元、即ち言霊原理そのもので禊祓をしようとする時の功罪が分かったことであります。

 言霊原理の存在がなければ、禊祓そのものが成立しません。けれど言霊原理を説いても禊祓は何の進展もありません。この言霊イ次元の禊祓に於ける功罪の認識を大禍津日の神と申します。

 八十禍津日、大禍津日二神についての詳細は「古事記と言霊」を参照して下さい。

 この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成りませる神なり。
 伊耶那岐の命が黄泉国に出掛ける以前には、高天原に於て何事が起っても、その物事の実相を言霊ア次元に於て見て、それをどう処理すべきかを言霊イ次元の言霊原理に照らして見るならば、自づと定まったのでした。

 しかし体験の対象が黄泉国の汚垢(気枯れ)た文化ではそう簡単には行きません。八十禍津日の神の説明でお話しましたように、五十音図を上下にとった下段の五十音図から上段の五十音図に引上げなければなりません。

 そのためにはイ段の言霊原理は禊祓の根本原理としながらも、それを表面には出さず(大禍津日)、また摂取すべき黄泉国の文化の実相を見ながらも、これをまた表面に出す事は差し控え(八十禍津日)、文明創造の根幹である中つ瀬の言霊オウエの瀬に於て、言霊原理に基づいた光の言葉(霊葉=ひば)、黄泉国の文化をその実相を損なうことなく闇の世界から高天原の光明世界に引上げることが出来る新しい息吹の言葉を創造の原動力としなければならないのだ、と気付いたのでした。

 この事は伊耶那岐の命が高天原の文化とは全く異質の黄泉国の穢ない文化を体験したお陰の出来事であります。

 次にその禍を直さむとして、成りませる神の名は、神直毘の神。次に大直毘の神。次に伊豆能売。
 八十禍津日に見られるように、黄泉国の文化の実相を見極め、これを前面に公表すれば、その客観的な実相を対象として捉え、その改革によって人類文明に取り入れようとすることになります。

 これでは黄泉国の文化をその有りの侭に摂取することにはなりません。また黄泉国の文化に言霊イ次元の言霊原理を当てはめて改革しようとしても、一方は主体文化、他方は客体文化という異質の文化でありますから、簡単にそれが通るものではありません。

 大禍津日に見られるようにその方法で禊祓するのは到底無理であることは既にわかっています。

 とするならば禊祓の本来の方法、即ち伊耶那岐の命が先に主体内に確立した建御雷の男の神の原理を指針として、黄泉国の文化を体験してしまった伊耶那岐の大神自身が奥疎から辺疎に変身することによって新人類文明創造を行う立場に帰らねばなりません。

 それを可能にするには、先に述べました奥(辺)津那芸佐毘古の神、奥(辺)津甲斐弁羅の神の働きを満足させる原動力となる言葉が必要です。

 そしてその言葉は八十禍津日の神の説明に見られるように、百音図の下の五段にある実相音を無条件で上の五段の高天原の世界に引上げる働きが備わっている言葉であるべきです。

 更にその言葉は、黄泉国の文化を体験し、知ってしまったという過去の事実を今・此処(中今)に於てしっかりと受け止め、それにただ流されることなく、新しい生命の息吹を与えて将来の創造行為に展開して行くことを可能とする言葉でなくてもならないのです。

 この条件を満たす言葉とは、一口に言えば、常に今・此処に展開して将来を創造する言霊とその原理に根差した光の言葉でありましょう。

 伊耶那岐の大神はその様な言葉を発見するべく、自らの心の瀬の言霊オウエの三つの瀬である中つ瀬に堕り潜いて行くこととなります。

 かかる言葉を言霊オ―ヲの流れに求めて発見する光の言葉を神直毘の神といい、言霊ウ―ウの流れに入って求めた光の言葉を大直毘の神と呼び、言霊エ―ヱの流れの中で発見した光の言葉を伊豆能売というのであります。

 神直毘とは、言霊オ次元に属する黄泉国の学問のすべてを人類全体の学問として引上げることが出来る光の言葉の働きといった意味であります。

 大直毘とは言霊ウの次元に属する黄泉国の産業・経済の産物を人類全体の産業・経済ルートに乗せ得る霊葉(ひば)の働きの意です。

 そして伊豆能売(いづのめ)とは御稜威(みいず)の眼(め)の意であり、言霊エの次元にあって発揮される言霊原理の最高の光の言葉であり、人類が永遠に生きて理想の文明を築くための眼目となる働きという事であります。

 (以下次号)