「古事記と言霊」講座 その- <第百六十四号>平成十四年二月号
 高御産巣日(たかみむすび)の神。神産巣日(かみむすぴ)の神。
 言霊ア、ワ。広い宇宙の一点に何か分からないが、ある事の始まりの兆しとも呼ぶべきものが生れます。それに対し太安万侶は天の御中主の神という神名を付けました。言霊ウです。次にそれが何であるか、の問いかけが人の心に生じる途端に、言霊ウの宇宙は言霊アとワの両宇宙に分かれました。安万呂はその両宇宙に高御産巣日の神、神産巣日の神の名を付しました。言霊ウの宇宙が言霊アとワの両宇宙に分かれる事は、意識の対象として、即ち現象として捉え得る事ではありません。飽くまで心の中の実在の活動であり、意識によってではなく人の内観・直観によってのみ捉える事が出来る事でありますので、これを宇宙剖判と申します。剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。日本語の妙であります。

 上の言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワ、即ち主体と客体、私と貴方、始めと終り……の両極が生じて来る消息を一つの実験によって逆に証明出来る事を説明しました。人は自分に対するものを見聞きした時、自らの存在、即ち自我を意識します。その現象は言霊ウの宇宙から言霊アとワの宇宙が剖判した事の一つの説明になります。それとは逆に、自我を意識している自分から、その自分に対立して存在するものが(仰向けになって見る雲一つない空が対立する雲がない事によって)なくなることによって、自意識が次第に消えて行ってしまう実験でありました。自意識が消えてしまうと、仰いで見入っていた空が自分を呑み込んでしまったのか、自分が空になってしまったのか、全く何だか分らない状態、即ち「天地の初発の時」の言霊ウになってしまう実験であります。それは言霊ウから言霊アとワが剖判する消息を、逆に言霊アとワとの対立から、対立が消えて初めの対立のない、禅でいう一枚の言霊ウに戻って行く事で証明する実験という事が出来ます。

 言霊ウから言霊ア・ワが剖判して来る事を簡単に確かめる心理実験として、上の如くビルの屋上で仰向けになって、雲一つない澄んだ空を見る事についてお話をしたのですが、これに関して蛇足かもしれませんが、二つの注意事項をお話をして置きます。

 十年以上前の事、ある右翼の幹部の方が私の処へ言霊の話を聞きに来ました。ところが心の先天構造という事がどうしても分からない、と言うのです。そこで私は所謂「仰向け実験」の話をしました。その実験で彼が人の心の本態が宇宙そのものなのだ、という事を知って貰えるかなと思ったからです。数日後、彼は再びやって来ました。そして「貴方の言った事は嘘だ。言われた通りに幾度もやってみたが、一度として自分と空とが一体となる事はなかった」と言います。私は彼が実験した時の心理を種々尋ねてみました。そして彼が一度として成功しなかった原因が分り、大笑いしたのでした。彼は実験を始めるや、宇宙との一体感を味わうという好奇心に胸をふくらませて、その現象が今起るか、今起るかと期待して待っていた、というのです。これでは空との一体感などいくら待っても起るはずがありません。彼は視覚に相対する物という対象の代わりに、彼の心の中に「一体感」という期待を強固に持ってしまったのです。知識人は経験的知識に頼って物事に対処するという癖が強くて、「ただ漫然と見る」という事すら出来なくなっていたのです。

 注意の二つ目は次の通りです。「ビル上の仰向け実験」は心の本態が宇宙そのものである事、また言霊ウより言霊ア・ワへの宇宙剖判を体験する簡単な実践です。けれど「心即宇宙」を自覚することではありません。これを自覚し、この自覚の下に一切の自分の行為を律して行く事が出来るようになる為には、種々の体験と反省の行為が必要であることを御理解頂き度く思います。この事については後程詳しくお話申上げます。そしてこの「仰向け実験」を何回も繰返してやれば、心即宇宙の境地を自覚することが出来る、と勘違いして、実験を度々行ったり、また面白がって遊び心で行う事は決してなさりませんよう御注意申上げておきます。この間の事情に精通した熟練者の指導の下に行わない限り、或る心理障害を招来する危険があることを忘れないで下さい。以上二つの注意を申上げました。

 言霊アとワの指月の指として太安万侶は高御産巣日の神、神産巣日の神という神名を当てました。高御産巣日は主体であり、神産巣日は客体です。二神の名を片仮名で書くと「タカミムスビ」「カミムスビ」となり、主体を示す高御産巣日の頭に「タ」の一字が多い事だけの違いという事に気付きます。とすると「タ」の一音によって高御産巣日は主体を意味する事となります。

 高御産巣日のタを除いたカミムスビから検討しましょう。カミは「噛み」です。産巣は産む、生じる事、日は言霊特にその中の子音を指します。カミの噛みは二つのものが出会う事で、心理学的に言えば感応同交という意。そこでカミムスビ全部で(主体と客体が)感応同交して言霊子音を生む、となります。では高御産巣日の冠に付く「タ」とは何を意味するのでしょうか。音声学という学問ではアイウエオ五十音表のタ行のタチツテトの五音はすべて陽性・積極性を意味する音とされています。日本の九州地方に伝わる剣道に示源流という流派がありますが、この剣法は剣を持って人と向かい合うと、剣を八双に立てて構え、そのまま敵に突進し、近づくと剣を上段に挙げ、気合諸共剣を敵の真向から斬り下げます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と自分の肉を斬らせて敵の骨を断つという玉砕剣法ですが、この剣を振り下ろす時の掛声がタ行の音「チェストー」です。以上の事で分りますように、「タ」とは積極・主体性を表わします。

 何もない心の宇宙に初めて言霊ウが生れ、それが剖判して言霊ア(高御産巣日の神)と言霊ワ(神産巣日の神)が生れて来ますが、このアとワは一方は積極性の我であり、主体であり、片方は消極的な客体であり、貴方であることがお分かり頂ける事と思います。この私と貴方、主体と客体が感応同交をすることによって何かの出来事が生れます。現象が起ります。即ち現象である子音が創生されることとなりますが、この主体と客体の感応同交に於てイニシアチブを取るのは飽くまでも主体アであり、客体ワは主体アの問い掛けに答えるだけであります。

 初め心の宇宙から言霊ウが芽生え、それが剖判して言霊アとワの宇宙に分かれます。そしてその言霊ア(主体)と言霊ワ(客体)の感応同交によって人間に関する一切の出来事(現象)が生れ出て来ます。人間の一切の行為の元はこの言霊ウ、アワの三言霊から始まります。これが人間の心の重要な法則でありますので、言霊ウ・ア・ワ即ち天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を造化三神と呼ぶのであります。

 広い何もない心の宇宙に初めて生れ、動き、蠢き出すもの、即ち言霊ウはやがて人間の自我意識に発展し、欲望性能が現れ、社会の中の産業・経済活動となって行きます。そのウの宇宙が剖判して出来た言霊ア(ワ)の宇宙からは人間の感情性能が発現し、その性能はやがて社会の中で宗教・芸術活動となって行くものです。
 古事記の文章の説明を先に進めます。

 この三柱の神は、みな独神(ひりとがみ)に成りまして、身を隠したまひき。
 この三柱の神とは天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神三神のことです。独神とは独立神という事で、他の実在に依存することなく、それだけで一つの界層、或いは次元を成している、という事です。例えば言霊ウの宇宙より発現してくる人間の五官感覚に基づく欲望性能というものは、他の言霊オの経験知や言霊アの感情性能に頼ることなくそれ自体で活動します。

 身を隠したまひき、とは三神はみな心の先天構造を構成している神で、意識で捉えることが出来ないものです。そこで自らの身を隠している、即ち現実の現象界には姿を現すことがない、という意味であります。この説明で納得なされば、それで事は済みます。けれど中々そう行かない場合がありますので、例を引いて説明しましょう。

 高御産巣日の神・言霊アは主体であり、私であります。神産巣日の神・言霊ワは客体であり、貴方です。と言いますと、「私といい、貴方という人間は現実に意識で捉えられるではないか。先天の実在であるというのは変だ」と思われる方もあるかと存じます。誠にもっともな事ではありますが、此処でもう少し考えてみましょう。今、此処に立っている私と言えば、右手で今日の朝刊の新聞を持ち、居間で窓を通して外を眺め、まだ起きたばかりで半分眠そうな眼をして、今日の日曜日は何処か空気のよい処へでも出かけて行き、帰りには久しぶりに美味しい夕食でも食べようかな、と思っている私です。一時間後の私は、会社から緊急の電話がかかり、血相を変えて急いで出勤のために背広に着替えているかも知れません。これも私である訳です。となると、どれが私なのでしょうか。この様に私自体という存在は捉えようがなくなります。捉えられる私とは、その時、その場の私というものの現象なのであって、私自体とは言い得ません。私自体とは人間が意識で捉えることが出来ないもの、つまりは人が意識で自分と思っているものの奥に直観で「自分自体」と見なしているもの、または、宗教行為によって直観乃至内観する「何か」でなければならない、という事になります。五官感覚で捉える現象としての「私」だけを私だと思っている限り、私という存在は私にとって永遠の謎のまま終ってしまう事となります。「真実の私とは何であるのか」と問い直して見る時、そこに壮大で、華麗で、厳密な言霊学の扉が開かれる事となるのであります。

 心の宇宙の中に言霊ウ、ア、ワの宇宙が剖判して来る状況を図で示しますと、左の如くになります。この剖判の理論上の説明は今までお話して来た事で済むのですが、人の心はこの剖判の過程をどの様に内観することが出来るのか、はまた別の話となります。勉学する人の実際の体験を次にお話することにしましょう。御参考になれば幸いであります。

 勉学者が古事記のいう「天地の初発の時」を現実に心で体験するための二つの方法、即ち自力と他力について前号でお話いたしました。今回も自力の反省から説明を始めます。人間は心の宇宙から生れ、宇宙の中で育ち、死ねば宇宙に帰って行きます。宇宙と人間は切っても切れない関係にあります。ですからここに「天地の初発」即ち心の宇宙自体を殊更に見、自覚しようとすることは奇妙な事なのです。宇宙、禅でいう「空」を見ようとすることを禅は「屋上屋を架す」と言って警しめています。四六時中宇宙の中で生きているのに、その上にまた宇宙というものを設定して、これを把握しようとすることは、今まである屋根の上に更に屋根を作ろうとするものだ、という訳です。ではどうしたらよいか、と言えば、常にその中に生きていながら、それを見る事が出来ないのは、見る眼の上に人間の経験知という色眼鏡をつけているからであり、宇宙を見たいならその色眼鏡をはずせばよい、というわけです。

 そこで自力信仰の反省、自分との問答が始まります。自分が生れた時から天から授かっている大自然の眼で物を見ることを妨害している自分の経験知とは何か。その自分がその時まで頼っていた経験知・癖を一つ一つ心の内で点検し、それ等が自己本来のものではなく、他からの借物である事を確認して行きます。そして最後にそれこそ自己そのものだと確信していた経験知に真正面から向き合う事となります。この経験知をも「ノー」と否定したら、自分はどうなってしまうのだろう、と不安に駆られます。この時、禅は「百尺竿頭尚一歩を進むべし」と励まします。そして更に一歩を進めた時、宇宙は「現前」します。何もない宇宙の広がりを見ます。そこに何もありません。従来の心は死に、再びの「生」は起りません。この恐ろしいような空の世界を禅は「白雲影裡笑呵々(はくうんえいりわらいかか)」とニヒルに言ってのけています。達磨大師は「郭然無聖」と言いました。「広がりのある他は何一つ有り難いものはないよ」と中国の王様の問いに答えています。そこには宇宙の無音の音が聞こえて来るばかりです。人はそこに留まるならば、永遠のニヒリズムがあるのみとなるでしょう……。これが宇宙なのです。

 人が自らの内に積んだ経験知識、性癖を、それは借り物であり、本来の自分ではないと「ノー」と否定して行き、その否定の末に大自然そのものに辿り着きます。そこは禅で「世界壊(ゑ)する時、渠朽(かれく)ちず」と言った冷厳透徹した無味無音の世界です。人間の愛、慈悲、温かさ、有難さなど一つもない世界です。それ等の人間らしさが現れるのは、人の精神反省の修行過程としては、もっと後の事なのであります。

 イエス・キリストは死んで三日目に蘇った、と聖書にあります。イエスは右に述べました如く精神的に死んだのです。肉体的に死んだのではありません。人は自らの本来の生の根源宇宙に帰った時、暫し茫然として何することの気も起きなくなります。それを死と呼んだのです。やがて(人により時間に差はあるでしょうが)冷徹し切った心の中に何かが芽生えます。それは何の変哲もない、いとも当然の事が起ります。例えば「腹が減ったな」です。何もない心の宇宙に何か、即ち「空腹感」が、言霊ウ、やがてそれが自己意識となり、欲望となる意識の芽が生れます。

 次に「何か食べるものはないか」と捜します。冷蔵庫の中に古くなった一片のパンを見つけました。夢中でそのパンを齧りました。その美味しい事。普段なら干乾びていて捨ててしまうであろうその一片のパンの美味しい事。この時です。人の心に愛、慈悲、そして生きることの無限の有難さ、身も震えるような真底から込上げてくる感謝の心が湧いて来るのは。今まで自分が自由気侭(きまま)に生きて来たと思っていた自分が、実は大きな大きな力によって生かされていたのだと気付くのです。身勝手で一人善がりの小さい小さい自分が、大きな力によって生かされて来た事を何の理屈もなく知ることとなります。聖書は「今よりは我生きるに非ず、イエス・キリスト我が内にありて生きるなり」の使徒パウロの言葉を伝えています。人は再び蘇ったのです。生れ変わったのです。

 先に図で示しましたように「天地」の何もない広い宇宙の存在を知り、その「初発の時」として言霊ウの芽生えを自己の心中に確認し、次に愛と慈悲の心に生かされている宇宙の子としての自己、主体としての自己である言霊アとその対象となる言霊ワの存在を知る心の旅路の過程は以上のようなものであります。

 自己は限りなく小さいもの、その限りなく小さい者であるが故に、限りなく大きな力、宇宙の力によって生かされているもの、そして限りなく小さいが故に、それが何かをしようとする処は常に大きな宇宙の中心に存在し、大きな宇宙より授かった知性を以て、自己である言霊アより対象となるあらゆる客観に天の浮橋なる橋をわたして次々と「問い」を発し、世界人類の文明を創造して行くことが出来る掛替えのない尊い生命であることを知ります。この文明創造の尊い生命の問いの光、聖書はこれを「日月の照すを要せず、神の栄光これを照らし、恙羊(こひつじ)はその燈火なり」と讃えています。

 上の自力信仰による心の宇宙の自覚から言霊ウ、ア、ワの剖判に到る過程を他力信仰の立場から説明することにしましょう。自己の他人、身内または社会に対する行為について矛盾を感じ、迷い、苦しみから脱却する道として他力信仰の道に入ります。自らの一人善がり、我侭な行為にもかかわらず、自分を生かし、守っていて下さる大きな力(例えば阿彌陀様)に帰依し、感謝の念で世の中を暮らさせて頂こうと思います。苦しくとも、どんなに辛くとも、大きな力に感謝し続けようと努力します。「善人なおもて往生をとぐ、まして悪人をや」の悪人正機を信じて信仰に励みます。けれど己が煩悩は次から次へと湧き出るが如く現れて、我が身を嘖なみます。自分自身でも呆れる程の煩悩に終には「煩悩具足の凡夫、地獄は一定住家ぞかし」の絶望が訪れます。どんなに佛に縋(すが)ろうとも、地獄の底に這い回っているより他にはない自分だと知ります。それは心も凍るような冷厳な事実として自我が打ち砕かれる時です。自己の罪の重さに手も足も出なくなったのです。如何に神仏に縋り、祈ろうとも助かる事のない自分だと知ります。地獄の底の底にただかすかに息をしている自分を発見します。この息をするのだけが許されている事がこの世の中に生きている印(しるし)であると知ります。

 この時、耳もとで大きな念仏の称名の声が聞こえて来ます。それは助かりたくて称えて来た念仏ではなく、決して助かる見込みのない自分の代わりに、阿彌陀様が地獄の底まで下りて来て下さり、自分の代わりに自分の口を使って称えて下さる念仏なのだ、と知ります。助かり度いという気持ちが消えて、しかも自然に両掌を合わせ、南無阿彌陀仏を称えている自分を発見することとなります。自我意識の自我ではなく、生れたばかりの本来の自己に帰った事を知ります。この純粋信仰を親鸞上人は「佛より賜わりたる信心」と呼びました。

 以上が他力信仰による自己の内に見る宇宙―言霊ウ・ア・ワの剖判の過程です。自力・他力どちらに頼るにしても、広い大自然の心の宇宙から言霊ウ・ア・ワの宇宙剖判の事実を自己心中に確認すること、即ち「天地の初発の時」に成り出でる造化三神、天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神を心の内に見極めるならば、勉学者の言霊学に於ける無限の創造の土台が築かれた事になる、と言う事が出来ましょう。

 宇宙より造化三神、言霊ウ、ア、ワが生れ出て来る自覚の心理過程を宇宙、言霊ウ、ア、ワの区切りが理解し易いよう説明しました。勉学者それぞれその心理過程の体験は画一的ではない筈です。この説明を参考にお考え下されば幸いであります。
 古事記の文章を先に進めることにしましょう。

 次に国稚く(くにわかく)、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。
 心の宇宙から言霊ウ、アワと剖判が起りました。しかしまだ先天宇宙の構造の話は始まったばかりで、それが確定されるのはまだまだ先の事であります。「国稚く」の国とは組んで似せる、区切って似せる、の意。東京と言えば東と京の字を組んで名を付け、東京といる処の内容に似せたもの、という意味であり、また東京という処を他の処とは別に区切って、東京の地を際(きわ)立たせたもの、の意となります。「国稚(わか)く」とは、先天構造を構成する言霊ウ、アワの検討は終えたけれど、まだその区分は始まったばかりで、しっかりと確定されたものでない、即ち、稚い、幼稚なものであるの意。「浮かべる脂の如くして」とは、水の上に浮かんだ油のようにゆらゆら漂っていて安定したものではない、という事。「水母(くらげ)なす」の水母とは暗気のこと。混沌としてまだ明白な構成の形体をなしていない、の意。

 「葦牙(あしかび)のごと萌え騰る物に因りて成りませる」の意味は、濕地に生える葦が春が来ると共に芽を出し、またその枝芽から次々と芽を出し、何処が元で何処が末だか分らない程分かれた枝芽を出しますが、その姿のように、の意であります。

 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。
 言霊ヲ、オ。宇摩志(うまし)とは霊妙不可思議なの意。阿斯訶備(あしかび)とは葦の芽のこと。比古遅(ひこぢ)は、辞書に比古(彦)は男子のこと、遅(ぢ)は敬称とあります。男子(おとこ)とは音子で言葉の事。「霊妙に葦の芽の如く萌え上がるように出て来る言葉」といえば直ぐに記憶の事だと思い当たります。寝そびれてしまった夜、目が冴えてとても寝つかれそうにない時など、過去の記憶が次から次へと限りなく浮かび上がって来ます。一つ一つの記憶は関連がないような、有るような複雑なものです。宇摩志阿斯訶備比古遅の神と古事記が指月の指として示した実体は、人間の記憶が納まっている心の空間(宇宙)のことであります。これが言霊ヲです。一つ一つの記憶は独立してあるものではなく、それすべてに何らかの関連をもっています。その関連が丁度葦の芽生えの複雑な形状に似ているために、太安万侶はこの神名を指月の指としたのでありましょう。

 天の常立(とこたち)の神とは大自然(天)が恒常に(常)成立する(立)実在(神)といった意味であります。宇摩志阿斯訶備比古遅の神が記憶そのものの世界(言霊ヲ)であるとするならば、天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。またこの世界から物事を客体として考える学問が成立して来ます。言霊ヲの記憶の世界も、その記憶を成立させ、またそれら記憶同士の関連を調べる主体である言霊オの宇宙も、それぞれ人間の持つ各種性能の次元宇宙とは独立した実在であり、また先天構造の中の存在で、意識で捕捉し得ないものでありますので、宇摩志阿斯訶備比古遅、天の常立の二柱の神も「独神であり、身を隠している」と言うのであります。

(以下次号)