「古事記と言霊」講座 その十 <第百六十九号>平成十四年七月号
 古事記の神話の形式による言霊学の教科書が天津磐境という十七の言霊で構成された心の先天構造を明らかにし、次にその先天構造の活動によって後天現象の単位である三十二の子音を創生する章に入ることとなりました。古事記は生れて来る子音の説明に入る前に、生れて来た子音が位置する宇宙の中の場所、これを島と名付けて、予め設定しておく作業を進めています。島の数は全部で十四有ります。その中の五島は先天十七言霊の区分、次の三島は生れる子音言霊三十二(三十三)の区分、残りの六島は言霊五十音を整理・運用して人間精神の最高規範(鏡)である三貴子(みはしらのうずみこ)を誕生させるまでの整理段階の順序とその内容を表わしたものであります。

 島々の名の説明に入る前に、右の十四島の区分を御理解頂く参考として、私の言霊学の師小笠原孝次氏のそのまた師でありました山腰明将氏が作成しました十四島の区分と配列の図表を掲げることといたします(次頁参照)。初めの五島は既に出て来ました先天構造五段階を説明するものであります。それに続く九島に就きましては、古事記の話が進み、それぞれの区別が終る節々に於て説明させて頂く事といたします。

 淡路の穂の狭別の島(あわじのほのさわけ)
 先天構造の最初に出て来る言霊ウの区分を示す島名です。神話形式で言えば天の御中主の神の宝座ということになります。アとワ(淡)の言霊(穂)が別れ出て来る(別)狭い(狭)道(道)の区分(島)という意味であります。この島の名の意味・内容は古事記解説の冒頭にあります天の御中主の神(言霊ウ)の項の全部と引き比べてお考え下さるとよく御理解頂けるものと思います。「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神……」の古事記冒頭の文章自体がこの島名の意味を端的に表わしているとも言えましょう。

 伊豫の二名島(いよのふたなしま)
 言霊ア・ワの区分、高御産巣日(たかむすび)の神、神(かみ)産巣日の神の宝座。伊豫(いよ)とは言霊イ(ヰ)のあらかじめと意味がとれます。何物もない広い宇宙から主客未剖である意識の芽が現出します。言霊ウです。それが人間の思惟が加わりますと瞬間的に言霊アとワ(主と客)の二枚に分れます。人間は物を考える時には必ず考える主体と考えられる客体に分れます。これが人間の思考性能の持つ業であります。「分(わ)ける」から「分(わか)る」、日本語の持つ妙とも言えます。

 この主と客に別れることがすべての人間の自覚・認識の始まりです。言霊ウの宇宙が言霊アワの宇宙に剖判し、次々とオヲ、エヱの宇宙剖判となり、終にイ・ヰの宇宙に剖判する事によって「いざ」と立上り、現象子音の創生が始まります。言霊イヰによる子音創生が始まりますのも、その予めに言霊アワに分かれたからでありますから、伊豫の二名(アワ)の島と呼ぶわけであります。

 この島は身一つにして面四つあり。面(おも)ごとに島あり。
 身一つ、とは一枚(言霊ウ)から二枚(言霊アワ)に分れることから、身とは言霊ウを指します。言霊アワから言霊オヲ、エヱが剖判します。そこで「面四つ」と言っています。

 面ごとに名あり。かれ伊予(いよ)の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いひよりひこ)といひ、粟(あは)の国を、大宜都比売(おほげつひめ)といひ、土左(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。
 面四つのそれぞれを言霊に置換えますと、愛比売とは、言霊エを秘めているの意で、言霊エは言霊オから選ばれる事から、愛比売とは言霊オであります。飯依比古の飯(いひ)は言霊イの霊(ひ)で言霊のこと、比古とは男性で主体を意味します。言霊を選ぶ主体は言霊エ、即ち讃岐の国は言霊エです。大宜都比売(おほげつひめ)とは「大いによろしい都を秘めている」の謎で、都とは宮子(みやこ)で言霊の組織体の意でありますので、粟の国とは言霊ヲの事を指します。建依別(たけよりわけ)とは建(たけ)は田気(たけ)で言霊のこと、依(より)は選(より)で選ぶの意で、土左の国は言霊ヱを指します。伊豫・讃岐・粟・土左の四国は「面四つあり」の四に掛けたもので、それ以外の意味はないように思われます。

【註】当会発行の「古事記と言霊」の書の九十四頁、九行に「建依別全部で言霊を選り分けたもの、となり言霊エとなります」とある言霊エはヱの間違いであります。訂正を願います。

 次に隠岐の三(み)つ子の島を生みたまひき。またの名は天の忍許呂別(おしころわけ)
 言霊オヲ・エヱの宇宙に於ける区分の事です。隠岐(おき)は隠気で隠り神の意。三つ子とは天津磐境の三段目に位する言霊を意味します。またの名の天の忍許呂別(おしころわけ)とは先天の(天)大いなる(忍)心(許呂)の区分の意。言霊オ(経験知)と言霊エ(実践智)は人間の生の営み、人類文明創造に於ては最も重要な心の性能であります。

 次に竺紫(つくし)の島を生みたまひき。この島も身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ竺紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ、肥(ひ)の国を建日向日豊久志比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といひ、熊曽(くまそ)の国を建日別(たけひわけ)といふ。
 父韻チイキミシリヒニの八言霊の精神宇宙内の区分。宇比地邇の神・妹須比智邇の神、以下妹阿夜訶志古泥の神計八神の宝座のことであります。これ等八父韻言霊、八神は母音宇宙言霊に働きかけて子音言霊を生む人間の創造意志の智性の原律をすべて尽くしている、即ち竺紫(つくし)の島である、という事です。この島も身一つにして面四つあり、とあります。八父韻すべては言霊イ(親音)の働きであります。身一つといわれます。その働きは二言霊一組の四組から成っています。面四つあり、の意です。この面四つ、四組の区別を左に並べます。

 竺紫の国 白日別 言霊シリ
 豊の国  豊日別 言霊チイ
 肥の国  建日向日豊久志比泥別 言霊ヒニ
 熊曽の国 建日別 言霊キミ

 右の如く並べて書きますと、三列目の肥の国を除く三行は白日別と言霊シリ、豊日別と言霊チイ、熊曽の国と言霊キミとしてそれぞれ五十音図表のサ行とラ行、タ行とヤ行、カ行とマ行と同じ行である事が分ります。また白日、豊日、建日と日の文字があり、日即ち霊(父韻)を意味します。以上の事から容易に古事記の編者太安万侶の意図を察する事が出来ます。然も編者は容易に謎を解かれるのを嫌ってか、三行目の肥の国だけは長い別の名を用いました。しかしこの長い名前も、八父韻解説の章で述べました如く、於母陀流(面足)が言霊ヒ、妹阿夜訶志古泥が言霊ニと解けてしまっている今では、建日向(面足)と日豊久志比泥(阿夜訶志古泥)は容易にその類似を知る事が出来ます。父韻ヒが心の表面に表現の言葉が完成する韻であり、その反作用として父韻ニが心の中心にすべての思いの内容が煮詰まる韻と分ってしまっているからであります。

 伊岐(いき)の島またの名は天比登都柱(あめひとつはしら)
 言霊イヰの精神宇宙に於いての区分。伊耶那岐の神・伊耶那美の神の宝座。伊岐の島とは伊の気の島の意でイ(ヰ)言霊のこと。天比登都柱とは先天構造の一つ柱の意であります。絶対観の立場から見ると、言霊イとヰは一つとなり、母音の縦の並びアオウエイと半母音の並びワヲウヱヰの五段階の宇宙を縦の一本の柱として統一しています。この統一した一本の柱を天之御柱と呼びます。伊勢神宮内外宮の本殿の床中央の床下にこの柱を斎き立て、これを心柱・忌柱または御量柱と呼び神宮の最奥の秘儀とされています。この心の御柱は人間に自覚された五次元界層の姿として、人間の精神宇宙の時は今、場所は此処の中今に天地を貫いてスックと立っています。一切の心の現象は此処から発現し、また此処へ帰って行きます。天比登都柱の荘厳この上ない意義を推察する事が出来るでありましょう。

 以上で心の先天構造を構成する五段階の言霊の位置を示す五つの島名の説明を終わります。これ等島の名によってその区分に属す言霊の占める精神宇宙の位置ばかりでなく、言霊それぞれの内容を理解するよすがとなることをお分り頂けたことと思います。島の名はこれより創生される言霊子音並びに言霊五十音の整理・運用に関係する島名となります。まだ古事記の文章に登場しない言霊の位置を示す島の説明をしましても無意味な事でありますので、古事記の文章が進む節々に従って島名の説明をすることといたし、解説は三十二子音創生の章に移らせて頂きます。。

 既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。かれ生みたまふ神の名は大事忍男(おおことおしを)の神、次に石土昆古(いはつちひこ)の神を生みたまひ、次に石巣(いはす)比売の神を生みたまひ、次に大戸日別(おおとひわけ)の神を生みたまひ、次に天の吹男(あめのふきを)の神を生みたまひ、次に大屋昆古(おおやひこ)の神を生みたまひ、次に風木津別(かぜもつわけ)の忍男(おしを)の神を生みたまひ、次に海(わた)の神名は大綿津見(わたつみ)の神を生みたまひ、次に水戸(みなと)の神名に速秋津日子(はやあきつひこ)の神、次に妹(いも)速秋津比売の神を生みたまひき。

 既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みたまひき。
 国とは組んで似せたもの、島とは締めてまとめたもの、共に似た表現であります。生れて来る現象子音言霊三十二の精神宇宙に於ける区分と位置が定まりましたので、いよいよ子音言霊の創生に取り掛った、という訳であります。

 先に昔の人は人の言葉を雷(かみなり)に譬えた、という話をしました。天空でピカピカッと稲妻(いなづま)が光ると、ゴロゴロと雷鳴が轟きます。それは心の先天構造の十七言霊が活動すると現象子音の言葉が鳴るのに似ているからです。「喉が渇いたな。お茶が飲みたい」という日常茶飯の何でもない言葉を発するのも、実は言葉の原理から言えば、先天宇宙に雷光が走ったからです。人の何でもない平凡な言葉も精神宇宙の大活動の結果です。そこで人間が言葉を発し、それを他人(または自分)が聞き、次にどんな活動が起り、その言葉の役目が終ったらどうなるのであろうか、という事をまとめてみたいと思います。それによって生れて来る子音言霊の精神宇宙に占める位置や区分、またその内容がはっきり理解されて来ると思われるからであります。

 先天の活動によって言葉が生れ、発声され、人に聞かれて了解され、言葉の当面の役目が終り、消えて行く。何処へ消えて行くか、と申しますと、元の先天宇宙に帰って行き、記憶として留められます。これが言葉の精神宇宙内の活動の全部であり、その他にはありません。此処に言葉の宇宙循環図を先師小笠原孝次氏著「言霊百神」(一○七頁)より引用します。

 先ず精神の先天宇宙の十七言霊が活動を開始します。この際の十七言霊を天名(あな)と呼びます。この天名の活動にて現象子音が生れて来ます。先天十七言霊(天名)の活動は、先天と呼びますように、人間の意識の及ばぬ領域でありますので、其処で何事が起り、意図されたのか、は全く分りません。その分らない内容を一つのイメージにまとめて行く作業が、先程書きました「既に国を生み竟へて、更に神を生みたまひき。……」に続く文章に生れて来ました大事忍男の神より妹速秋津比売の神までの十神の言霊の処で行われる事となります。この十神(十言霊)の属する島の名を津島(つしま)と呼びます。またこの十言霊の作業の処では、先天構造の活動によって起った意図がどんな内容か、がイメージとしてまとめられますが、しかしまだ言葉とはなっていません。この言葉にならない状態を真奈(真名)または未鳴(まな)と呼びます。津島の後に佐渡島があります。この島に属する言霊が八つあります。この八つの言霊の作業によってまとまったイメージが言葉と結び合わされて行き、最後に発声されます。この状態の言霊を真奈または真名と言います。

 佐渡島の次に大倭豊秋津(おおやまととよあきつ)島またの名天つ御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)なる島が続きます。この島に属する十四言霊の作業で、イメージが言葉として組まれ、発声された言葉が空中を飛び、やがて他の人(または自分)の耳に聞かれ、復誦され、その内容が一つの意味に煮詰められ、最後に了解され、結果としてまとめられます。この間の十四の言霊の中で最初の四言霊(フモハヌ)が発声された言葉が空中を飛ぶ状態です。この四言霊を神名(かな)と呼びます。残りの十言霊が耳に入った言葉を点検・復誦して納得する作業となります。この時の言霊は再び真奈(真名)と呼ばれます。納得され、了解された言葉は役目を終え、元の宇宙に帰って行き、記憶として残ります。

 以上、三島に属する三十二の言霊が後天現象の単位である子音言霊のすべてであります。これを三島に属すそれぞれに別け、更に生れ出て来る順に並べてみましょう。

 津島――――――タトヨツテヤユエケメ
 佐渡島―――――クムスルソセホヘ
 大倭豊秋津島――フモハヌ・ラサロレノネカマナコ

 以上三島で三十二の子音が生れます。子音言霊の数はこれで全部です。こう見て来ますと、読者の中にはちょっと奇妙な事になっていることに気付く方がいらっしゃるのではないでしょうか。そうです。狐につままれたのではないか、と思われる言霊の魔術?にかかってしまったかとも思われる事が事実なのだ、という事に気付くのです。それは、先天十七の言霊の活動で次々と三十二の子音が生れます。その生れ出て来る総数三十二の子音が、そのまま生れ出て来る順序をも示している、という事なのです。この様な奇妙な事が起るのも、言霊子音が現象の究極最小の単位であるという事、またこの三十二の現象子音の循環が現象宇宙のすべてを表示しており、少しの欠落も余剰もないという事に由来しているのであります。かくの如き言霊原理の魔術的表現を「言霊の幸倍(さちは)へ」と呼んでおります。この人間社会の生命の営みを言霊イ次元に視点を置いて見る時、其処には五十音の言霊しか存在せず、一切の社会的事物がこの五十音を組合せる事によってその実相を表現することが出来るという、日本語の本質が確認されるのであります。

 以上の様な「言霊の幸倍へ」は言霊の学の他の箇所にも見られます。一・二例を挙げますと、言霊五十音(四十八音)全部を重複することなく並べて、人間の持つ一切の煩悩を打破する方法を説いた所謂「いろは歌」、また言霊四十七音を重複することなく並べて、世界文明創造の方法(禊祓)を説いた日文四十七文字があります。この日文四十七文字は奈良天理市の石上神宮に太古より伝わる布留の言本(ふるのこともと)と呼ばれています。

(以下次号)

 言霊学と信仰(言霊学随想)

 私の言霊学の師、小笠原孝次氏は言霊の学を学ぼうと師の門を叩く人に対し「貴方は何か信仰をなさっていますか。信仰なさっているならその信仰を、なさっていないのなら貴方の身近な確かな信仰に入り、そのそれぞれの信仰を卒業して来て下さい」と告げるのが常であった。

 信仰を卒業するとは如何なる事か。自力信仰で言えば、例えば仏教禅宗の「空」を自覚する事であろう。「色即是空、空即是色」と知って自らの心の本体が宇宙そのものであると知る事である。自我意識が実在ではなく現象であると知る事です。他力信仰で言えば、キリスト教や浄土真宗の謂う「信心の決定」のことであろう。「善人なを往生す、いかにいわんや悪人をや」と悪人正機を知り、弥陀の御手に深く抱かれている自分を知ることであり、またパウロの「今よりは我生くるに非ず、イエス・キリスト我が内にありて生くるなり」の如く、身の内にイエス・キリストの復活を知る事である。以上の如く「信仰の卒業」とは信仰の対象である神仏と自我が一体となること、仏教で言えば初地の仏となり、キリスト教ではアノインテットと呼ばれる境涯の事である。

 信仰を持たずに一生を過ごすのも一つの人生である。信仰に身を捧げるのも一つの生の営みである。であるのに師は何故言霊学を志す人々に信仰とそれよりの卒業を奨めたのであろうか。今・此処に簡潔にその理由を解説し、布斗麻邇勉学者の参考に供することにしよう。主として二つの理由がある。

 この世に生をうけてより自我の五官感覚に基づく欲望の追求に一生を費やす人、或いはその欲望追求の経験の間の法則を求めて学問探求を仕事とする人(言霊ウ・オの境涯)、またそれ等欲望と経験知識探究の生活の中の矛盾に気付き、信仰によって自らの心の種々の束縛から脱却して平安を望む人(言霊アの境涯)、それら言霊ウオアの境に在って努力する人々はその日、その時の雰囲気によって一喜一憂して心は揺れ動いている。揺れ動く自らの心で動いている社会を見ても、社会の真実の姿、所謂物事の実相を見極める事は困難である。この人達が物事の矛盾に遭遇する時、必ず喧々囂々の論争が捲き起る。唯一つしかない物事の実相を見極める眼を持ち得ないが為である。

 物事の実相を見るためには、自らの自我意識を形成する言霊ウ・オの経験知識と、自らの「救われたい」心の束縛を脱して、完全な心の安心、「我即宇宙」を実現することである。所謂言霊アの修業の卒業である。言霊アの修業からの卒業は即、言霊学入学の門に通じている。人それぞれの持つ経験知識によって形成された視点から、人が生れた時から授かっている宇宙の視点に移行することが出来るのである。以上が第一の理由である。

 言霊学の門をくぐると、それまでの信仰で神仏と呼んでいた信仰の対象が、言霊アの純粋の愛・慈悲の世界と、その世界の内容である言霊五十音とその法則である布斗麻邇の原理(言霊イ)と、その原理に基づいた人類文明創造の手段(言霊エ)という呼名に変る。神と言い、仏と言う言葉が実はここ人類歴史三千年間の方便の世の假りの名であった事を知る。信仰に於て神仏として自己を超越した外に仰ぎ見たものが、実は自らが生来与えられていた五つの性能言霊母音イエアオウの宇宙であると知る。それは自らの心の住家である心の宇宙の構造を知ることである。

 人間生来の性能の根元であるイエアオウ五母音が自らの心の住家であることを知る事によって、神仏を自らの外に信仰の対象として仰ぎ見ている時には自覚が不可能であった次の事項の認識が明らかに開ける可能性が生れて来る。

 イ、キリスト教によって「父の名を崇めさせ給え」と祈りの究極の願望であった創造主の名が実は人間の心の最奥に働く生命創造意志、言霊イの実際の智性のリズム、言霊チイキミシリヒニであると知り、その働きの内容を人間自身の心の中に内観することが出来る。
 ロ、言霊父韻と母音との交流によって生れ来る現象の実相単位三十二の子音の確認が可能となる。
 ハ、人間の全精神構造を父韻・母音・子音の五十音図として自覚して、その原理の最高の活用法である人類歴史創造の手段である禊祓の大業を自覚し、皇祖皇宗の経綸に参画することが出来る。
 ニ、人間の歴史創造の営みの一切は架空なる神仏の為す業ではなく、平々凡々たる我等人間に課せられた崇高な使命であることを知る。
 以上が先師小笠原孝次氏が言霊学を志す人々に示した「信仰を卒業して……」の第二の理由である。

(以上)